「奥州街道千住宿 」の話
千住の地名には諸説あり、荒川を流れて来た「千手観音像」を拾った。足利義政の「愛妾(あいしょう・めかけ)千寿」の出生地であったから。
また、「千葉氏住んでいた」「千」葉氏が「住」んでいた。と言われています。
江戸時代、徳川幕府は防衛のために川に橋を架ける事を禁じていました。
東海道、甲州街道を流れる多摩川、中山道を流れる荒川、入間川。しかし、東海道に次ぐ交通の要「奥州街道」千住宿は、水戸街道との分岐にもあたり、交通量が多く「荒川(現隅田川)」に、文禄3年(1595年)家康によって唯一橋が架けられました。
当初単に「大橋」と呼ばれていましたが、明暦の大火後両国に橋が架けられ、「千住乃大橋」と呼ばれる様に成ります。
日光街道と水戸街道(下妻道)で、江戸に向かう旅人は、千住宿で合流し、大橋を渡り江戸城下に入りました。